マイクロコンピュータとの出会いは工科系大学に在学中のことです。1978年の頃だったと思います。自分がなぜ工科大学に入学したのかといえば、少年の頃からラジオなどの電子関係の趣味があったからです。小学校の頃見よう見まねで鉱石ラジオに挑戦して失敗orz。気を取り直してキットを買ってきて上手く放送が聴けたときの感動を今でも忘れません。中学生になると、なけなしのお年玉で買ったFMラジオに夢中となり、一生懸命周波数ダイヤルを合わせ短波放送を聴いたり深夜放送にはまったり。高校時代も今度は高級オーディオや生録音に夢中となったり放送委員会に属してプロ用の放送機材を得意になって操作したり。自分は将来こうした高級オーディオの設計者になるんだと人生を夢見たのはちょうどそのころでした。成績は文系の科目の方がよかったのに、下手の横好きだったんですね(笑)。
ところが大学に入ってみてびっくり。専門分野の始まりは交流理論と電気磁気学。交流理論は電子回路の話ではなく数学のかたまりです。電気磁気学はといえば、一点の点電荷が無限の彼方から飛んできて(クーロンの法則)などという、これまた訳のわからない世界です。もう少しアンプとか実際の機器に即した授業をやってくださいよ~と愚痴ばかりこぼしていました。
大学3年生になるころにはオーディオのブームが過ぎ去って、夢だったオーディオ業界はすっかり冷え込んでいました。そんなある日研究室に友人が持ち込んできたのがNECのTK-80というワンボード・コンピュータでした。しかもそれにはTK-80BSというオプションのボードを組み合わせて、テレビをつないでプログラムを入力するとすごく面白いというのです。
最初はあまり関心がありませんでした。大学の講義では電子計算機学という講座もとっていましたが、FORTRANというプログラム言語で与えられた課題をプログラミングするだけでちっとも面白くなかったのです。これなら自分が使っているカシオのプログラム電卓と変わりないじゃん。それで十分と思っていました。
ところが友人が持ち込んできたTK-80/BSを実際に見せてもらって驚きました。テレビの画面いっぱいに簡易図形を表示させたり、カシオの電卓でもなく学校の大型コンピュータ(FACOM)でもない、自分のコンピュータという面白さを一瞬のうちに理解してしまったのです。すぐさまスポンサーの親を説得しました。当時TK-80/BSと電源のセットで20万円もしたのですが、意外にもあっさりと資金提供してくれました。自分の人生が決まった瞬間でした。
友人の勧めで、秋葉原のラジオ会館6Fにあった小沼電気さんというところで意気揚々とTK-80/BSを買ってきました。このTK-80というワンボードマイコンは、自分で半田ごてを握って作らないと動かない、まさにラジオキットのようなものでした。半田ごてには自信のあった私でしたが、TK-80の基板はガラスエポキシ基板の両面スルーホールというやつで、オーディオのような片面基板とは少しはんだ付けの要領が異なっていて、半田の不具合などが起きてしまい最初は四苦八苦しましたが、それでもなんとか出来上がりました。
このTK-80を期に、自分の中で何かが弾けました。プログラムを組むのも面白かったですが、むしろTI社のTTL(Transister Transister Logic)-ICを組んで自分の思い通りの論理回路を作る楽しみが生まれたのです。何かの入力の状態に基づいて自分の好きな処理をさせて、何かを動かしたりLEDを点灯させたりする。自分の頭の中にある理屈通りに動いたときの快感は代え難いものがありました。TTLはオーディオと異なり、寸分の違いもなく組んだとおりの動作をしてくれました。私はその単純明快さにはまり込み、独学でTTLやデジタルの勉強を始めました。その頃の大学では研究室以外ではそんなデジタルの実践はほとんど提供してくれていませんでした。
私がTTLを趣味で使い回していた頃(そう言えば、よく秋葉原の亜土電子には行きましたね)、世の中には数種類のマイコンキットや一部パソコン(Apple-IIなど)が有名になっていました。私は最初からTK-80でマイコンの勉強をしていたために、必然的に8080Aのプログラミングやシステムに詳しくなっていきました。もし私がそのとき富士通のキットや松下電器のLkitを購入していたら自分の人生は全く異なっていたと断言できます。それほどTK-80とそれを紹介してくれた友人の与えた影響は結果的に大きかったですし、友人には大きく感謝の意を表したいと常に思っています。
その当時、自分にはソフトウェアの才能はなく、むしろハードウェアの面白さばかり考えていました。ソフトウェアもですからハードに近いアセンブリ言語(機械語)ばかりに熱中し、高級言語にはあまり興味を抱きませんでした。大学の研究室も計測制御研究室という、まさにデジタル・ハードウェアの応用を主体とする研究室を選んだのもそれが理由です。
研究室では幸いなことにTK-80/BSを主体にシステムを組み、ある研究テーマのためにアナログ信号の入出力を扱っていました。その頃はまだデジタル系のインターフェイス技術も開発途上で、A/DやD/Aといったアナログ-デジタル変換素子といった入出力はその変換速度も遅く、精度も今ひとつでした。今のパソコンから見れば亀のように遅い8080AでもA/DやD/Aの変換を待つために、処理中にウェイト(待ち時間)を入れなければならないほどだったのです。
そのときは大学には変な噂があって、機械語でプログラムを組まないと卒論に合格しないといわれていました。でも研究対象のシステムは機械語よりも動作の遅いBASIC言語でプログラムを組んでも十分な速度だったのです。そこでそれまで大学院生が機械語で組んでいたプログラムを全部BASICで書き直してしまいました。ついでにCPUをザイログのZ80で作り直してしまいました。その結果、今までよりも遙かにわかりやすいプログラムとなり、リアルタイムにパラメータを設定したり情報を取得表示するヒューマン・インターフェイスも向上したため、これまでになくオペレーションが便利になりました。
それを卒論発表会でいきなり機械語よりBASICで十分だなんて堂々と打って出たのです。主任教授は発表後う~ん、よくわからんと言って黙ってしまいましたが、無事に卒論は「良」で通過しました。
TK-80との出会いは自分の人生を変えました。その結果自分の会社人生はずっとCPUとのお付き合いだったですし、いまでもそれが続いています。面白いことに、当初自分の憧れでもあったオーディオの世界はCDの登場と共に一気にデジタル化が進み、今やデジタル抜きには語れない世界になっています。CPUの歴史と共に歩んできた自分の人生は本当に楽しいものですし、大学在学中にマイコンと出会えたことは本当に運が良かったとも思います。できれば当時ソフトウェアに目覚めていればもっとインターネットの時代で楽しめているかも知れませんが、まあそれはよしとしましょう。